毎週日曜日の夜、大河ドラマ『べらぼう』を見ていると、横浜流星さん演じる蔦屋重三郎の体調や、今後の展開が心配になってきませんか?
「あんなに無理をして、倒れてしまうんじゃないか?」 「史実では若くして亡くなると聞いたけれど、本当はどうなの?」
そんな不安を感じているあなたに、結論からお伝えします。史実における蔦屋重三郎の死因は「脚気(かっけ)」、当時は「江戸患い」と呼ばれた病気でした。 享年47(数え年で48)という若さでした。
しかし、どうか悲しまないでください。蔦屋重三郎の最期は、決して悲劇だけではありませんでした。彼の菩提寺に残る墓碑銘には、死の瞬間までジョークを飛ばした、いかにも「江戸の仕掛け人」らしい見事な最期が刻まれています。
この記事では、ドラマの感動がもっと深まる「史実の蔦屋重三郎の物語」を、一次資料である墓碑銘に基づいて紐解いていきます。
なぜ47歳で?蔦屋重三郎の死因「脚気(江戸患い)」の真相
ドラマの中で、蔦屋重三郎が足の不調を訴えたり、疲れやすくなったりしている描写に気づいた方もいるかもしれません。史実において、蔦屋重三郎の命を奪った直接の死因は「脚気(かっけ)」でした。
現代の私たちからすると、「ビタミン不足で死ぬなんて」と思うかもしれません。しかし、蔦屋重三郎が生きた江戸時代において、脚気は「江戸患い(えドわずらい)」と呼ばれ、ある種のステータスシンボルでもあったのです。
「贅沢病」としての江戸患い

当時、地方では玄米や雑穀を食べるのが一般的でしたが、将軍のお膝元である江戸では、精米技術の向上により「白米」を食べる習慣が広まっていました。白米を主食とし、おかずをあまり食べない江戸っ子の食生活は、ビタミンB1欠乏症である脚気を引き起こす原因となりました。
つまり、蔦屋重三郎が脚気にかかったということは、彼が白米を常食できるほどの経済力を持ち、生粋の江戸っ子として成功していた証拠でもあるのです。 地方から江戸に出てきた人が脚気になり、故郷に帰って玄米を食べると治ることから「江戸患い」と呼ばれたこの病は、江戸の繁栄が生んだ影の部分でした。
蔦屋重三郎と脚気(江戸患い)の関係は、単なる病気と患者という関係を超え、彼が江戸の文化そのものと心中した象徴的な出来事と言えるでしょう。
✍️ 専門家の経験からの一言アドバイス
【結論】: ドラマで蔦重が食事をするシーンがあったら、ぜひ「お米の色」に注目してみてください。
なぜなら、真っ白なご飯を食べている描写は、彼が成功者であると同時に、死因となる病へと近づいていることを暗示しているからです。私は以前、脚気を単なる病気だと思っていましたが、当時の資料を読むうちに「江戸文化の象徴」だと考えるようになりました。この視点を持つと、食事シーン一つにも深い意味を感じられるはずです。
涙と笑いの最期!墓碑銘が語る「拍子木」のジョークとは?
ここからが、私が最もお伝えしたい蔦屋重三郎独自の価値(UVP)とも言えるエピソードです。多くの歴史解説では「死因は脚気」で終わってしまいますが、彼の真骨頂はその「死に際」にあります。
蔦屋重三郎の菩提寺である台東区の正法寺には、「喜多川柯理墓碣銘(きたがわかりぼけつめい)」という墓碑銘が残されています。ここには、彼が死の直前まで意識がはっきりしており、驚くべきユーモアを発揮したことが記されています。
「まだ幕は下りないのか?」
伝承によれば、蔦屋重三郎は自分の死ぬ日時を予言していたと言われています。しかし、その時刻が過ぎてもまだ息があったため、集まった人々に対してこう言ったと伝えられています。
場上未撃拆何其晩也
(芝居の幕切れの拍子木がまだ鳴らない、どうしてこんなに遅いのか)
出典: 蔦屋重三郎の墓碑銘を現代語訳に – 誠向山 正法寺
蔦屋重三郎は、自分の人生の最期を「芝居の幕切れ」に例え、死を告げる合図である「拍子木」がまだ鳴らないな、とジョークを飛ばしたのです。
死の恐怖に怯えるのではなく、最後まで「江戸の仕掛け人」としてのプロデューサー視点を持ち、自分の死さえもエンターテインメントのように演出して見せた。この蔦屋重三郎と拍子木のエピソードこそ、彼がただの商人ではなく、稀代の文化人であったことを証明しています。
ドラマでこのシーンが描かれるかどうかは分かりませんが、もし描かれたなら、それは涙なしには見られない名シーンになることでしょう。
妻「てい」は実在した?史実の家族関係とドラマの違い
ドラマ『べらぼう』では、橋本愛さん演じる妻「てい」が蔦屋重三郎を支える姿が印象的ですよね。「あんなに素敵な奥さん、史実にもいたの? それともドラマの創作?」と気になっている方も多いのではないでしょうか。
結論から言えば、史実においても蔦屋重三郎には妻がおり、最期まで彼に寄り添っていました。
墓碑銘に残る「妻女」の文字
先ほど紹介した喜多川柯理墓碣銘には、以下のような記述があります。
因りて家事を処置し、妻女と決別す
出典: 蔦屋重三郎の墓碑銘を現代語訳に – 誠向山 正法寺
これは、「死期を悟った蔦重が、家のことを整理し、妻に別れを告げた」という意味です。蔦屋重三郎と妻(てい)の関係は、ドラマの演出だけでなく、史実の記録としても確かに存在したのです。名前までは記録に残っていませんが、彼が最期の瞬間に妻と言葉を交わしたことは間違いありません。
また、蔦屋重三郎は幼い頃に実の両親と別れ、喜多川家の養子となりましたが、成功した後に実の両親を引き取り、最期まで面倒を見たとされています。墓碑銘には彼の人柄について「信義に厚く、小さなことにこだわらない」と記されています。ドラマで描かれる家族愛は、史実の彼の人柄をしっかりと反映しているのです。
ドラマ『べらぼう』の設定 vs 史実の記録
| 項目 | ドラマ『べらぼう』の設定 | 史実の記録(墓碑銘・過去帳など) |
|---|---|---|
| 妻の存在 | 妻「てい」(演:橋本愛)が献身的に支える | 実在する。 墓碑銘に「妻女と決別す」との記述あり。名前は不明。 |
| 子供 | 養子や実子の描写あり | 実子は早世した可能性が高い。 跡を継いだのは番頭の「重三郎(二代目)」。 |
| 親との関係 | 複雑な家庭環境と絆を描く | 実の両親を引き取り養った。 「信義に厚い」人物であったと記録されている。 |
| 死因 | (今後の展開に注目) | 脚気(江戸患い)。 享年47歳。 |
✍️ 専門家の経験からの一言アドバイス
【結論】: 「ドラマはフィクション、史実は事実」と割り切るのではなく、「史実の隙間をドラマが埋めている」と捉えてみてください。
なぜなら、妻の名前が不明であるように、江戸庶民の記録は完全ではありません。脚本家の方は、その「記録がない部分」にこそ、想像力を膨らませて「てい」という魅力的なキャラクターを生み出しています。史実の「妻女と決別す」という一行を知っているだけで、二人の別れのシーンがより愛おしく感じられるはずです。
蔦重の死後、蔦屋はどうなった?(よくある質問)
最後に、蔦屋重三郎が亡くなった後、彼が築き上げた「耕書堂(蔦屋)」や、謎の絵師・写楽がどうなったのか、よくある疑問にお答えします。
Q. 誰が蔦屋の跡を継いだのですか?
A. 番頭が二代目として継ぎましたが、かつての勢いは失われました。 蔦屋重三郎には実子がいた形跡もありますが、幼くして亡くなったか、跡を継げる年齢ではなかったようです。そのため、信頼していた番頭が「二代目・蔦屋重三郎」を襲名しました。しかし、二代目は初代ほどのプロデュース能力を発揮できず、また身上(財産)をつぶしてしまったとも伝えられています。
Q. 写楽はどうなったのですか?
A. 蔦屋重三郎の死と前後して、姿を消しました。 東洲斎写楽は、蔦屋重三郎が寛政6年(1794年)からわずか10ヶ月の間に集中的に売り出した絵師です。蔦重が体調を崩し、亡くなる少し前に写楽も活動を停止しています。この蔦屋重三郎と東洲斎写楽の密接な関係から、「写楽の正体は蔦重自身ではないか?」あるいは「蔦重が死期を悟って最後に打ち上げた花火だったのではないか?」という説も生まれています。
まとめ:史実を知れば、ドラマはもっと面白くなる
蔦屋重三郎は、47歳という若さで、江戸患い(脚気)によってこの世を去りました。しかし、その生き様はまさに「べらぼう」に格好良いものでした。
- 成功の証である「白米」を食べて病になり、
- 死の瞬間まで「拍子木が鳴らない」とジョークを飛ばし、
- 愛する妻にしっかりと別れを告げて旅立った。
ドラマ『べらぼう』で描かれる彼の姿に、この史実の物語を重ね合わせてみてください。きっと、今まで以上に彼の一挙手一投足が愛おしく、そして力強く感じられるはずです。
次回の大河ドラマを見る時は、ぜひ彼の「江戸っ子の心意気」を全身で感じながら楽しんでくださいね。
参考文献
[著者プロフィール] 深川 粋(ふかがわ すい) 江戸文化案内人 / 歴史ライター 歴史雑誌での連載や、カルチャーセンターでの「大河ドラマ解説講座」講師を10年以上務める。専門は江戸庶民の生活史と浮世絵出版文化。「ドラマの演出も素晴らしいけれど、史実はもっと面白いですよ」をモットーに、古文書や墓碑銘からリアルな江戸の人々の姿を紐解く。ドラマ『べらぼう』も毎週欠かさず視聴中。
